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 コードブルー、コードブルー
 救急治療室、お願いします









 入口の扉が不格好にガシャンと閉まって、ちょうど一畳半ほどの箱の中に一人きりでいると、ひとりごとを言いたくなってくることがある。
 そんな時私は、きっとそこに誰かがいるんだなと空想して、「君、いつまでもこんなところにいて退屈しない?」なんて、フィクションの主人公になった気分で誰もいない天井に向かって話しかけてみたりする。もちろん返事なんて本当はあるわけがないんだけど、私の空想の世界ではこんな台詞が返ってくることも。
『まーね。でも、結構ここにいるのも楽しいもんだよ』
 だけど、もしそれが想像の話じゃなくて、実際に、本当に天井から降ってきた声だとしたら? それも私が想像していたとおりの、ちょっと生意気そうな男の子の声なんてね。


 外はうだるような猛暑の季節。建物内はひんやり心地よく、狭い箱の中、ビーンと響く空調の音に耳を澄ませる。
 これは私と、私が出会った幽霊少年との、ある夏の出来事だ。


 近ごろの残業続きで、気づかない間にひとりごとを言ってしまうくらいにほとほと疲れきっていた私は、その時本当に天井から返ってきた子どもの声に、聞こえた瞬間、「やった!」とガッツポーズをとるほど相当思考回路をやられていたんだと思う。
 私はこの古くてこじんまりとしたエレベーターで、「エレベーター・ボーイ」と我ながら素晴らしいネーミングセンスで命名した幽霊くんに前々から会ってみたくてたまらなかったのだ。
 私の職場は、市内のわりと大きな総合急性期病院。三百床はある、第二次救急指定病院っていうことになっている(らしい。よくわからないけど)。ただ、いかんせん建物が古い。東棟と南棟に分かれた「コ」の字型の建物は、東棟の方が後から建てられたものだからか、東と南、それぞれ天井の高さはばらばらで、いたるところ坂道や階段ばかり。病院内で迷わないようにと、外来診療のある一、二階は廊下のあちこちにカラフルな矢印が引っ張られていて、あっちは採血、こっちは検査科、放射線科は緑の点線……といった具合に、正直なところ私でさえも頭がこんがらがってしまう、迷路のような病院内だ。
 そんな東棟六階の病棟で働く私は、毎日南棟と東棟、一階と六階を行ったり来たり。最初の頃は、たしか頑張って階段を使っていたりした時期もあったような気がするけれど、今ではすっかりエレベーターのお世話になって、日頃の運動不足にさらに磨きをかけている。
 一階から六階まで、エレベーター内で一人きりになると、なんだか「わーっ」と叫びたくなってくる。これはたぶん、トンネル内で「ヤッホー」と声を張り上げたくなるのと似てるんだと思う。気を紛らわしたくなった時とか、職場の誰にも聞かれたくない愚痴を言いたくなった時とか、狭い箱の中で誰に言うでもなくしゃべってみる、秘密のストレス解消法。カラオケよりもずっとすっきりする。
 叫ぶのに飽きたら、お次はここでだけ出会う、私にしか見えない創造された幽霊くんとのおしゃべり。頭がいかれてるなんて言ってくれたって別に構わない。まあ、誰もいないところでやるんだから、誰に気づかれることもないし。幽霊じゃなくたっていいんだけど、私のちっぽけな想像力では幽霊を創り出すだけで精一杯だから、せめてもとちょっと個性的なところもオプションで付け加えてみたりする。私の愚痴にうんうんと頷いてくれたり、時には生意気なことを言ってきたりしてくれるような。それも決まって男の子。かっこつけたがりの生意気な幽霊少年だ。東棟のこのエレベーターにだけ住みついている、その名も「エレベーター・ボーイ」。
 だけどさすがの私でも、その幽霊少年に二度も会うようなこととなれば、ガッツポーズどころじゃない。一度目の天井からの声は、声が聞こえるだけで姿は見えもしなかったから、空耳だろうとかそんな結論で結局のところ済ませたけれど、さすが二度目ともなると、しかもその幽霊が私の目の前に姿を現したともなると空耳なんていうごまかしはきかなかった。
 一階でエレベーターに乗り込んだ私の後に、続いて入って来た人の気配があったものだから、私は当然のようにボタンの前に立って背中でこう尋ねてみただけだった。
「何階まで行かれますか?」
 返ってきたのはこうだ。
「何階まででもいいよ」
 そんな返事を、しかも子どもの声で聞いたとなれば、それはもう「はあ?」と内心しかめ面で振り返らずにはいられなかった。
 そこにいたのは、自分よりも頭ひとつ分は背の低い小学生五、六年生くらいの男の子。おまけに身体はうっすらと透けて見える。その少年が、生意気にもこう続けるのだ。
「あなたが行くところまでお願いします」
 唖然とした私をよそに、時間が経ち過ぎたのか、エレベーターの扉が勝手に閉まる。狭い箱の中には、私とその幽霊くんの二人きり。先日とは違って、わりと正気な私には、振り返った首をそのまますーっと前に戻して、背中に冷や汗をかきながらただただ目の前のボタンを見つめていた。私の行き先は六階。少年はそこまでついてくるという。どうしよう幽霊なんて、そんなこと、私、霊感なんてないはずだったのに。はやく、どうしよう、呪われたら、はやく、はやく着いて!
 ようやく六階の赤いランプが消えて、扉がガシャンとぎこちなく開く。慌てて私は飛び出して、それからナースステーションに正真正銘生きている人の姿を確認してから、おそるおそるエレベーターを振り返ってみた。だけど、動くその箱はちょうどその瞬間にはガシャンと閉まって、また下へ呼ばれてしまったようだから、結局のところわからずじまい。
 ああそうだ、やっぱり疲れていただけなのかもしれない。きっとそうだ。
 ただのおかしな夢。そうは思ったりもしたけれど、その次に下の階へ降りなきゃいけないことがあった時には、どうしてもエレベーターを呼ぶ気がしなくて、階段を使うことにした。東棟と南棟の、まるで迷路のように入り組んだ段のきっつい階段を。
 ところがやっぱり急がなきゃいけない時は当然あって、ぜーぜーはーはー階段なんか使うのはもってのほか、エレベーターに乗りこむより他にないということは起こり得てしまう。誰か乗ろうとする時を見計らって、さっと身体を紛れ込ませれば、ああこれはもう疲れのせいなんかにはできない。エレベーターのすみっこのほうで、人の後ろに隠れて例の幽霊少年がたたずんでいるのが目に入ってしまった。
 けれど、今の幽霊は私に話しかける気がないらしい。他に人がいるからだろうか。つんと澄ました顔をして、それからちらっと私の方を見ると、彼はそのまますっと見えなくなってしまった。気付けば箱の中には私一人だけ。どうやらいつの間にか他の乗客は途中で降りてしまったらしい。もしかして幽霊もどこかの階に降りたとか?


 どうやら幽霊少年こと、エレベーター・ボーイは、テレビのホラー特集に出てくるような怨霊の類ではなく、人畜無害であるようだった。
 私の他に乗客がいるような時は決して話しかけてこないし、私も他に人がいないような時にはできるだけ階段を使うようにしていたから、それほど彼を見かけることもないし、エレベーターの外、病棟なんかでは一度も見かけたことがない。
 日も暮れて、ほとほと疲れきって階段を上がり下りする気力もない時には、仕方なく一人きりでエレベーターに乗ってみたりもしたけれど、どうやら幽霊少年は午後八時以降には現れないということもわかった。その事に気づいた私がちょうど夜の八時に乗り込んだ時、ぼそっと「幽霊でも面会時間は守るんだ」と笑ったら、背後でぽわっと煙のように現れた少年が、「幽霊でも面会時間は守るんです」と私の言葉を繰り返した。
 あいにくと、今は他に誰もいない。一瞬ぎょっとした私だったけど、なんだかもうすっかり見慣れてしまったこの幽霊に、いちいち怖がってみせるのも馬鹿馬鹿しく思えてきてしまった。
「今日はもう面会時間を過ぎましたよ」
 私は言った。
「うん、だからもう帰らなきゃ」と幽霊。
「毎日どなたかにご面会ですか?」
 ちょっとふざけて訊いてみれば、少年は「ええ、まあ」と妙に大人ぶった言い方で答えた。
「エレベーターから離れられないのに?」と私。
 少年は、少し驚いたような顔をして、それからにこっと笑った。
「離れようと思えば、離れられるよ」
「へえ、ということは、地縛霊ってわけじゃないんだ」
 私はふむふむと頷く。この古い病院だったら心霊的な噂のひとつやふたつ、当然あり得るだろうけど、この幽霊少年の話だと、必ずしも病院に居ついた幽霊がこの土地に縛られているってわけじゃなさそうだ。
 それから私はエレベーター・ボーイの笑った顔をちらっとうかがった。なんて良い笑顔だろう。この子、もし大人になれていたら、きっとイケメンの類に入っていたに違いない。
 その少年が、笑顔を作ったまま、私の背後でこう告げる。
「自分のこと棚に上げてよく言うね」
「え?」
 正面に振り返ると、彼はその表情を苦笑に変えた(苦笑なんてできるんだから、本当にこの子想像通りの生意気っぷり)。
「今日も残業なんでしょ? キミこそここに縛られてるみたいだなって」
 ガシャン。
 エレベーターが一階に到着した。扉が開けば身体は勝手に前へ出る。狭いエレベーターから出たところで、もう一度振り返れば、少年の姿はまたも煙のように消えていた。
 それも、「早く帰りなよ」っていう言葉を残してくれちゃって。言われなくたって、今日はもう帰ります。
 ……ところで、あれ? エレベーター・ボーイはいったいどこに帰るというのだろう。

 その日以来、私はこの面会時間を守るという律義な幽霊少年を怖がることはなくなった。なにせ彼は、私に生意気な口をきく以外に、何をすることもできないらしいのだ。
「誰かを呪ってやるとか、そんなことはしないわけ?」
 我ながらよくぞここまで際どいことを質問できたと思う。そんなことを言って、自分が呪われたらどうするつもり。言った瞬間は焦ったけど、私の中ではこの子はそんなことをする幽霊とは違うと確信していた。
 一階から他の乗客と乗り込んだ後の、すぐ二階の外来診療で私以外の人たちはみな降りていってしまう。少年と私のふたりきり(正確にはひとりきりって言うべきかも)になった直後に、私は後ろを振り向いてその質問をしてみた。
 幽霊少年は、わざとらしく両腕をさすって、
「おおこわい。そんな物騒なこと」
 と、なんてことを言うんだといった目で見てきた。 「ホラー番組の見すぎじゃないの? ほら言うじゃん、『人を呪わば穴二つ』ってさ。そんなリスク負って呪いなんか普通しないでしょ」
 なによこの言い方。こんなふうに言われて私がむっとしないはずがない。
「あのねえ、ちゃんと意味わかって言ってるの? 君はもう穴に入っちゃった子どもでしょ」
「ああ、そうだっけ」この、わざとらしくとぼけた調子。「でもほら、穴に入っちゃったら、ここにはいないんじゃないのかなあ?」
 私は頭上の現在階を示すランプが「四」の数字に辿り着いたのをため息をつきながら眺めていた。
 訊いてみようか、どうしようか。「五」のランプが消えてしまった勢いで私は息を吸う。
「ねえ、君はどうしてこんなところに――」
 あれ、いない。
 なんなの、もう。幽霊って本当にきまぐれ。それとも彼がきまぐれなのか。

 エレベーター・ボーイと初めて出会った日から、もう三週間は経っただろうか。
 残業続きの嫌な月末月初がまたやってきて、一日に一階と六階を往復することもぐんと増えてきた。相変わらず幽霊くんは午後三時以降にやってきて、私が一人になると声をかけてくる毎日(ちなみに、平日の面会時間は午後三時から八時まで)。ちょっとした口喧嘩になったりならなかったりもしょっちゅうで、顔を合わせたくなんかない時は、意地でも階段を使ってみせた。それでも観念して、面会終了時間頃、数時間ぶりにエレベーターに乗り込めば、にやりと性格悪そうに私を見上げる少年の茶色い瞳。
「もう降参?」なんか言ってくれちゃって、ほんとにいやあながきんちょだこと。

 その日の私は最悪の気分だった。
 病院を職場にする以上は、人の命の終わりを間近に感じることをどうしても避けることができない。助かる命が大半だけど、中にはそうじゃないことだってある。
 珍しく心配そうに「どうしたの?」と声をかけてきた少年に、私はそれまで強張ったままだった身体を解きたい一心で、行き先のボタンも押さずに、閉じたままの動かない箱の中で背中を向けたまま口を開いた。
「コードブルーがかかったの、知ってるでしょ?」
 背後から、わずかに戸惑った気配がした。もしかしたら彼はその放送を聞いていないのかもしれない。エレベーターにまで館内放送のスピーカーはついていない。それでも私は続けた。
「あれね、リハビリ室からだったでしょう。六階の患者さんだったの。リハビリに行くときまではね、すごく元気におしゃべりしてたんだって。それなのに、行って十分もしないうちに突然倒れたって……肺に血栓が飛んじゃったってはなし」
「……そうなんだ」
 エレベーターは動く気配がない。誰かが他の階でボタンを押せば、すぐにでも動きだすだろうけど、それがないから私もついこんなことまで言ってしまった。
「この間もあったでしょ、コードブルー。それでね、私思ったの。こんなこと言ったら先生や看護師さんに怒られるのかもしれないけど、まるでコードブルーって、人の死を呼ぶ呪文みたい――」
「違う!」
 突然の怒鳴り声に、私は思わずびっくりして少年を振り向いた。彼は顔を赤くして怒っていた。なんだかいつもよりも、身体がはっきり見えている気がする。本気で怒ると、今まで消えて見えなかった足もとまで映るようになるらしい。
「あれは、人の命を助ける信号だ!」
 その時、ふいに扉が開いた。乗り込んでくる人は誰もいない。怖くなってとっさにエレベーターから出ようとした私の後ろで、少年は打って変わって静かにこう言った。
「明日、待ってるから」
 え?
 振り返ってももう誰もいない。怒ったエレベーター・ボーイは、またもや煙のように消えてしまった。
 少年の言う次の日は、結局気まずさが勝って私は一度もエレベーターを使わなかった。仕事が終わったのも、夜の九時頃。面会時間を守る幽霊少年にはもう顔を合わすこともない時間だ。いやに緊張していた私はほっと安堵してエレベーターに今日初めて乗り込むと、誰もいない箱の中に、折り畳まれた一枚の白い紙が落ちていることに気がついた。



 古崎かなえ様

 僕の姿が見えるキミにお願いがあります。
 明日の三時過ぎ、このエレベーターで待っています。さまよえる幽霊を助けてくれる気がもしあったら、どうか一人で来てください。僕はキミが来てくれるまでずっと待っているつもりです。

ELEVATOR BOY

 追記
 残業ばかりしないで、もうそろそろ帰ってもいいんじゃないかな。



 古崎かなえは私の名前だ。『ELEVATOR BOY』なんて名前をつけて私宛に手紙を書くなんて、そんなのはあの幽霊少年以外にありえない。
「……がきんちょ幽霊のくせに」
 私は丁寧に手紙をたたんで、ポケットにしまった。「もし」なんて書いておきながら、「ずっと待ってる」って、ずるいにもほどがある。明日は階段を使うわけにはいかなくなっちゃったじゃない。
 約束の翌日午後三時。
 私はどうにか都合をつけて、エレベーターに乗り込んだ。午後の三時といったら、平日の面会開始時間だから、いつもなら一階から上がってくる面会者たちが多い。だけど、その日は誰もまだエレベーターを使う様子がなくて、私が一人で乗り込むと、扉が閉まった後の箱はまったく動かないままだった。
「……ねえ、約束どおりちゃんと来たよ」
 私は何もない頭上を見上げるようにしておそるおそる言った。
「うん、待ってた」
 後ろで聞きなれた子どもの声がする。「ありがとう」
「お願いってなに? できないお願いは受け付けられないからね」
 ふふっと少年は笑う。「キミならできるよ。――僕さ、いい加減幽霊のままでいるのも飽きちゃったし、そろそろ成仏でもしようかと思ってさ」
 だから協力してくれない?
 思いがけないその言葉に、目を丸くして少年の姿を見ると、彼はいつにも増してはっきりした状態で姿を現していた。
「成仏、できるの?」と私。
「そりゃ、まあ。僕はキミが言うには幽霊ってやつですから」と少年。
「どうやって? やっぱり、何か未練があったりするんだ」
「まあ、そんなとこ」
 少年は軽く流して教えてはくれない。
「私はどうすればいいの?」
「その前に、訊いてもいい?」
 真剣な声に、思わず私も緊張する。「な、なに」
「あの時、どうして僕の後をついてきたの?」
 あの時ってどの時? そもそも後をついたことなんて一度もないし、と思ってぱちりと瞬きをすると、「なんでもないや」と少年はごまかすように笑って、続けた。
「会いたい子がいるんだ。その子がいる病室まで、連れていってくれればいいんだけど」
「一人で行けばいいじゃない」
「だってほら、僕地縛霊ですから」
 違うんじゃなかったの。そう返そうと思ったけど、なんだか言葉が出てこなくなってしまって、私は小さく肩を落とすとさっきと同じことをもう一度訊いた。
「その会いたい子に会えたら、成仏できるんだ?」
 私の声のトーンが微妙に下がったのを、この生意気にも空気が読める幽霊少年は敏感に察してしまったのかもしれない。ちょっと意外そうな感じで少年は私を見つめて、答える。
「たぶんね」
 それから彼はにこり笑った。
「どうしても会いたいんだ。でも、キミが嫌だって言うんなら、やめておくよ。僕はもうちょっとここにいようと思う。幽霊でいるのも、まあ、悪くはないなって思えるようになってきたし」
 そんなこと、そんな悲しそうな笑顔で言わないでよ。ここまで言われちゃったら、ノーなんて答えられないに決まってるじゃない。私は、今では足もとまで姿が見えるようになった少年から、くるりと背を向けると閉じた扉を見つめながら息を吸った。
「せっかく成仏できるんなら、私だって協力するよ。嫌だなんて言えないでしょうよ。その子がいるのはどの病棟? 小児科病棟でいい?」
 小児科病棟は南の三階。ここからだと一度東棟の二階に降りてから、南棟に向かう階段を少しだけ上がっていくことになる。けれど、『二』の数字が書かれたボタンを押そうとして、少年に慌てて止められた。
「違うよ、小児科じゃない。病室があるのは東の四階、内科の病棟だよ」
「内科? ふうん、ガールフレンドにでも会いたいのかと思ったんだけど、違うんだね」
 とりあえず、言われたとおりに四階のボタンを押す。すると間もなくエレベーターは機械音を立てはじめた。
「キミってば、すっかり僕が年下だと思ってるよね」
 少年が後ろで不満そうに言った。だって、年下じゃないの、どう見ても。でも、まあ確かにこの少年がいつから幽霊になったのか、私にはわからない。
「本当はいくつなの?」
 素直に訊けば、返事がなかった。そのうちに四階まで到着してしまって、私が振り向くより先に扉が開く。
 口数の減った少年はなんだかすごく緊張しているように見えた。
「ついたけど、大丈夫? 行ける?」
 つい私も心配するような口調になってしまう。おかげでこっちまで緊張してきたみたい。
 ふいに、少年のほうから右手を差し出されて、私は思わずまばたきをした。
「手、つないでくれないかな」と幽霊少年。
 自分より(見た目は)うんと年下の男の子と、ましてや怖くもなんともない幽霊と手をつなぐくらい、私にとってはどうってことないことだったけど、はたして私が彼の差し出す右手に左手を乗せれば、私の手は彼の手の中をすり抜けて、お世辞にも手をつないでいるとは言い難い様になってしまった。けれど少年はそれでも構わないらしい。男らしく私の手を引くような形で握りしめた少年は、深呼吸して一歩二歩と前に進み出す。
 彼がエレベーターを出ようとしたところで、私は緊張のあまり、叫ぶようにしてこう言った。
「ねえ、名前は? あとで探せるかもしれないでしょ、君の名前」
 つ、と足を止めた少年は、少し驚いたように振り向いて、それからすごく嬉しそうに笑った。ここまで笑顔なのは、私も初めて見たかもしれない。
「『エレベーター・ボーイ』でもいいよ、別に」
「だってもう、エレベーターからいなくなっちゃうんでしょうよ。最後くらい、名前教えて」
 そう言うと、彼は私の手を引いて(つなげてもいないのに、本当に私は引っ張られた気がした)、とうとうエレベーターから一歩外に飛び出したのだ。私も続いて外に出る。外の世界で少年と同じ場所に立てたのは、私の記憶するところ初めてのことだった。
「病室まで着いたら教えるよ。早く一緒にきて」
 彼は私がちゃんと着いてきているのか、しょっちゅう振り向いて確認しないと不安らしい。だけどそんなことしなくたって、強く握られた彼の手から逃れることなんてできないんだから――そう思って、私はふと改めて、繋がれた自分の左手を見おろす。私の手が少年の右手をすり抜けているのは目で見て明らか……なのに、どうしてこんなに強く握られてるってわかるんだろう。頭の上に大きなクエスチョンマークを浮かべながらも、まるで早回しでもしてるかのように、私の横でいくつもの病室が流れていった。
「ここ」
 ようやく少年が立ちどまったその病室のたった一枚はめこまれたネームプレートを見て、私は少年の顔を凝視した。私が口を開くより先に、繋いだ手を離さないまま、彼はもう片方の手を扉にかけて、わずかに口元を上げた。
「来てくれてありがとう、かなえさん」
「え、ちょっと、」
 同時にすっと彼の手で開かれる扉の向こうに、それまでの言葉をなくし、まるで吸い込まれるようにして興味津津の私は一歩二歩と進んでいく。道に迷った者たちを正しいところへ導くようにして、白い光が病室からあふれ出ていた。
 ――ヒロト。
 その時、誰かの声がした。
 ――教えるって言った、僕の名前です。
 その刹那、私たちは真っ白な光に包まれる。



 コードブルー、コードブルー
 救急治療室、お願いします



「誰か! 誰か先生呼んでくれ! 息がないんだ! 看護師さん、早く来てくれ!」
 誰かが必死に叫んでいる。
 見れば、倒れた女性の肩を叩いて、無我夢中で呼びかける男性の姿。「大丈夫ですか、わかりますか」――だけど彼女は目を覚まさない。
 そのうち、白衣姿の若い先生がやってきて、看護師さんが飛び出してきて、廊下は人だかり。AED(自動体外式除細動器)が運ばれてきて、なにやらごちゃごちゃ説明を読みあげる音声と、飛んでくる怒号と、バタバタと駆ける足音と――それらを全部、人ごとにように見ている私。
 すぐそばの救急治療室に運ばれた女性を見送って、まもなく聞こえるコードブルーの緊急放送に震えた私は、隣で呆然と立ち尽くす彼の左腕をつかんで、それから離した。閉められた扉を見つめた青年の目から涙がひとつ流れて落ちたのだ。
 続々とやってくるドクターの波にのまれて、私はふわふわその場を離れる。
 立ち尽くしていた青年も、まくったYシャツの袖で顔を拭うと、黒革の鞄を持ち直して扉に背を向けた。そうして彼は、エレベーターに向かって歩く。
 ああ、ちょっと待って。
 見つけてくれてありがとう。
 助けてくれてありがとう。
 ただそれを伝えたくて、私は彼の後を追った。寸前でエレベーターの扉は閉じてしまって、急いで私はボタンを押す。ガシャンと、もう一度開いた扉に乗り込むと、見回した箱の中には誰の姿も見あたらなかった。
 あの人は何階に行ったのだろう。
 会ってお礼を言わなくちゃ。
 このエレベーターで待っていたら、きっとそのうち会えるはず。



 目を開けたら、真っ白な昼の光があふれていた。
「ああ、まさかこんなことが――かなえ! かなちゃん! わかる?」
 すぐ目の前に、母の特別大きな顔。あまりにも泣きそうな顔で笑うから、私もつられて口元がにやけてしまった。
 母に続いて、父の陽に焼けた顔。「かなえ」と呼んで、それから前髪を撫でてくれる。
「篠宮さん、どうもありがとう。本当にありがとうございました。信じて良かった、あなたがいてくれたからかなえも――」
 母の声に、「いえ」と静かに笑う声。その声につられ、私は酸素のチューブの向こうを見上げて、それから枕の位置をちょっと変えると、つぶやいた。
「……ヒロト君?」
 すると気づいたYシャツ姿の青年が、嬉しそうに微笑み返して、
「具合はいかがですか」
 と、妙に大人っぽく言うものだから、私もついつい顔がほころんでしまう。
「かなちゃん、こちらね、篠宮さんっていって、あなたのこといろいろ助けて下さった方なの」
 そんなこと、わかってる。軽く頷いた私に、「篠宮さん」は答えた。
「はじめまして、かなえさん。篠宮裕人といいます」
 はじめまして。私も答えるけれど、しばらく使わなかった喉はうまいこと声が出てくれなくて、結局何を言ってるのかわからないまま。けど、右手を持ち上げれば、気づいた彼は握手をするように左手で握りしめてくれて、その時になってようやく私は、さっきまで手がすり抜けてしまっていたのは、本当は私の手の方が透けていたからだということに気がついた。
 笑った私に、同じく声を上げて笑う彼。それからちょっと顔を近づけて。
「おかえり」
 だからあんまり残業ばっかりしないで帰りなよって言ったじゃないか。彼は言った。

 すぐさま、看護師さんと思しき人がやってきて、あとから先生も続いてやってきた。裕人君はそれからしばらく姿を見せずに、夜も八時近くになってもう一度私の病室を訪れる。
 父も母も、気をきかせてくれたのか、病室には私の彼の二人きりで、まるでエレベーターの中に戻ったみたいだと私は笑った。
「もう勘弁してほしいな。エレベーター酔いして大変だったんだから」と裕人君。
 どうやら彼は、私と二人で話せるように、一日にエレベーターを何往復もしたという。(他に乗る人がいると私は現れてくれなかったと彼は言うけど、もう何が何だか私にも真相のほどはよくわからない。)
 もうそろそろ帰らないと。面会時間終了の放送が流れて、彼は椅子から立ち上がった。
「面会時間は守らないとね。――また明日、遅くなるかもしれないけど、来てもいいかな」
 こくり頷いてから、慌てて呼びとめた。
「待って」
 振り向いた大人な顔に、私は深く頭を下げる。
「助けてくれてありがとうございました」
 一番彼に言いたかった言葉。あの時、彼を追いかけた理由。これが言えなくて、私はエレベーターでさまよえる幽霊となってしまった。
「いーえ」と彼。「僕は看護師さんや先生を呼んだだけだから。でも、本当に良かったよ」
「裕人君。あなたのおばあちゃん、きっと元気になるよ。大丈夫、私と同じ命を救う呪文がかけられてるんだから」
 そう言うと、彼ははっとした顔をして私を見つめた後、私のよく知る笑顔(しかもとびきり良い笑顔)を見せて、手を振った。

「ありがとう、エレベーター・ガール」


『エレベーター・ボーイ』おわり

【オンライン文化祭2013】参加作品

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この物語には、Side:Bの話が存在します。お読みになられる方は、下のリンクからどうぞ。



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